舞事と働事

能では一曲のクライマックスでの表現として、謡が中心となった「クセ」などでの舞や、囃子のみで舞われる「舞事」が演じられます。

今回はその舞事と、働事について。これらは、それぞれ太鼓の入った「太鼓物」や、太鼓の無い「大小物」などに分類されます。

●呂中干(りょちゅうかん)の舞
定型の譜(呂中干の譜)を繰り返しながら、途中で段落や変化をつけた曲。いろいろな役柄が舞います。中テンポの「中之舞」や、ゆっくりとした「序之舞」、急テンポの「急之舞」などがあります。

●楽(がく)
中国を舞台とした曲で、神仙役の者が舞います。楽人役のシテが舞うこともあります。

●神楽(かぐら)
脇能(シテが神仏の役を演じる曲)で舞われます。神がかりした女性役の舞です。太鼓物。

舞ほど長くないですが、舞台を一巡する所作でシテの品位や勢威、内面心理を表現する囃子事もあり、それは「働事」と呼ばれています。

●舞働(まいはたらき)
竜神などが勢威を示すための曲です。太鼓物。

●翔(かけり)
武人(修羅)や狂女が演じる曲です。大小物。

能の舞

前回紹介したような、いろいろな型の連続によって表現される能の所作のまとまりを「舞」と呼びます。

「能の舞はきわめて静的である」という印象が一般的なのですが、「序破急」と呼ばれる緩急があり、ゆっくりと動き出して、徐々にテンポを早くし、ぴたっと止まるように演じられます。

まれに激しい曲ではアクロバティックな演技(飛び返りや仏倒れなど)もあるんです!

しかし、止まっている場合でもじっと休んでいるわけでなく、いろいろな力がつりあったために静止しているだけに過ぎないので、身体に極度の緊張を強いることになります。

それが、内面から湧き上がる迫力や気合を表出させるんですね!


主な型の種類

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今日は主な型の種類について。。


シカケ(サシコミ)
すっと立ち、扇を持った右手をやや高く正面にだす。

ヒラキ 
左足、右足、左足と三足(さんぞく)後退しながら、両腕を横に広げる。
  シカケとヒラキを連続させる型をシカケヒラキ(サシコミヒラキ)と呼ぶそうです。

左右(さゆう)
左手を掲げて左に一足、または数足出た後、右手を掲げて右に一足、または数足出る型。

サシ
右手の扇を横から上げて正面高くに掲げる型。

シオリ 
目の前に手を差し出す。これは泣くことを示すんだそうです。

拍子(ひょうし)
どちらかの足を上げて、舞台を踏む。

留メ拍子(とめびょうし) 
一曲の終わりにはっきりと、2回踏む。シテが踏むこともワキが踏むこともあるそうです。

これだけでもいろいろな種類の型があることがわかりますよね!


決まった体の動きでいろいろな表情を生むことが出来るなんて、すごいです。。

型の基本

型の基本は摺り足ですが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で、これを円滑にやる為には膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要があります。

すなわちこれが「構え」です。
また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向かって舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴があるのです。三方から見えるからこそ、色々と意識しながら動かないといけないですね。

能舞台は音がよく反響するように作られていて、演者が足で舞台を踏む(足拍子)事も重要な表現要素なんです。音も大事です。

所作(型と舞)

能は型(演技等の様式、パターン)によって構成されています。所作、謡、囃子、全てに沢山の種類の型があります。

しかしここでいう型は、いわゆる舞や所作の構成要素としての型です。
これらの型の成立の経緯についてははっきりしていないですが、梅若猶彦さんは型の出現を江戸期、型が安定的に継承されるようになったのは昭和期ではないかと推測しています。

型が出現した理由として梅若さんは、身体動作に名前を付けることで学習が効率的になるということを挙げています。それは、確かにそうかもしれないですね。

また梅若さんは、現代の能においてはこれらの型が必要以上に重視され、一種の信仰の対象のようになっていることの弊害も指摘していて、世阿弥の著述からは型への信仰は窺えないこと、重要なのは役者が自分の内面と身体の関係を自由にコントロールできる能力を身に付けることで、型の学習のみではそれは不可能だという事を指摘しています。難しいですね・・・自分をコントロールするのはなかなか・・・。

幽玄その2

「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれていなくて、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試し、またこの美的性質は子方の演技にても稀に感得されることがあると指摘しています。

梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対して、「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まるとしています。とても興味深い内容ですね。お勉強になります。

幽玄

能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」があります。

能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないですが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措やたたずまいのように「ただ美しく柔和なる体」を「幽玄」としています。
これは、人それぞれだと思いますけどね^^

ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘していて、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではないそうです。
ちょっと難しいお話なんです・・(><)

玄人による能

玄人による能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるという点も独特である。通常の演劇では事前にリハーサルを重ね、場合によってはゲネプロという形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについて前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになると論じている。

梅若猶彦

梅若猶彦もこのような死者による語りの構造を重視し、能はこのような構造を持つことで、能独自の美の世界の構築を可能としていると指摘している。梅若はその例として、「実盛」のシテである斉藤実盛の亡霊がワキの夢の中に登場し、己の死に様を語りながら、己の生首を洗うという場面を挙げている。この場面ではシテ演じる実盛の亡霊には首が付いているのであるが、同時に実盛の亡霊は切り落とされた自分の生首を手に持っているのである。このような不条理な演出が可能となっている理由として梅若は、能が一般に「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造を持っていることを指摘し、「死者による語り」という夢幻能の基本構造が、こうした他に例を見ない物語世界の構築を実現していると論じている。

死者の世界からものを見る

これに対して夢幻能は「死者」が中心となった能である。八世観世銕之丞は夢幻能の大きな特徴として「死者の世界からものを見る」という根本的な構造を指摘している。すなわち、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである。これについて銕之丞は、観阿弥・世阿弥・金春禅竹らによって猿楽が集大成された室町期は戦乱の時代であり、死が人々にとって極めて身近なものであったことを、こうした構造の理由に挙げている。